論作文教育―添削指導の原点に立って、特定秘密保護法案を考える
2013年11月30日
(資)オフィスユマニテ(作文学舎「紙とえんぴつ」論作文教育研修センター)
統括マネジメント 西村哲史
「自分で考え、判断し、解決する」ためには「きちんと知る」ことが必要です
長年、論作文教育―添削指導に携わってきましたが、今、中・高校生や大学生に極めて不足しているものがあります。それは、「自分で考え、判断し、自分自身で『答えを創り、解決する力』」です。
テストでは、必ず「問題」と「正解」があります。みな懸命に、その「正解」を探します。しかし、「どう生きるか」という問いに対する「正解」はありません。自分で考え、判断し、「答え」を創り出していかなければなりません。この力を育んでいくことが論作文教育―添削指導に求められています。
「考える」ためには、何よりも「知る」ことが必要です。何がどうなっているのかを知らなければ、何をどうすればよいのかもわからないからです。たとえば、小論文などで、ある問題についての「解決策」を述べることが求められる場合、まずは現状をきちんと知り、それを検討することが大切です。現状把握・現状分析を怠ってしまったのでは、絶対に「解決策」を示すことはできません。むろん、これは「解決策」を提起する場合に限ったことではありません。大学受験の小論文であれ、就職試験の論文や作文であれ、ものごとを「きちんと知る」ことが出発点です。
特定秘密保護法案は、「きちんと知る」ことを阻害します
今、特定秘密保護法案が参議院で審議されていますが、マスコミ界をはじめ、さまざまな団体・市民が反対しています。また、審議があまりにも拙速だという声も少なくありません。一方、「公務員じゃないから、私には関係がない」「あまり関心がない」という人も少なくないでしょう。確かにこの法案は、特定秘密を漏らした公務員への厳罰化を一つの軸としていますが、では、一般国民には「関係がない」法案なのでしょうか。私たち論作文教育―添削指導に携わっているものにとっても「関係がない」ものなのでしょうか。
残念ながら、「関係がない」としてすませられるほど、楽観的に考えるわけにはいきません。なぜなら、特定秘密保護法案は、「きちんと知る」ことを阻害するものだからです。そして、「きちんと知る」ことの阻害・否定は、「徹底的に考える」こと、「自分の言葉で堂々と述べる」ことの阻害・否定へとつながっていきます。
論作文教育―添削指導においては、生徒や学生に「きちんと知ろう、徹底的に考えよう、そして堂々と述べよう」とアドバイスします。その意味で「知ろう、考えよう、述べよう」は論作文教育―添削指導の原点です。特定秘密保護法案が、「知るな、考えるな、もの言うな」という流れに向かわせる危険性を持つとするならば、論作文教育―添削指導に携わっているものにとっては、決して「関係がない」ではすまされません。
「知る権利は否定されていない」という意見は説得力を欠いています
「国益や国民の安全を守るために、国の秘密は守られなければならないし、知る権利が否定されているわけではない」と考える人も少なくないでしょう。しかし、そのように考えるのであれば、少なくとも次のような疑問が払拭される必要があります。
- 何が、なぜ、「秘密」となるのか
- 「秘密」が勝手に無制限に拡大される危険性はないのか
- 「国益や国民の安全」にかかわることが、どこでどのように検証されるのか
- 「秘密」の名の下で不正や不祥事の隠蔽が行われたり、逆に、「国益や国民の安全」が損なわれたりすることはないのか
- 中身が拡大解釈され、国民に「処罰」の網が広がっていくことはないのか
これらの疑問に対して、法案はほとんど答えていません。「秘密」の範囲は不明確であり、本当に「秘密」にすべきことなのかどうかを国民が検証することもできません。また、年月を経てどのように状況が変わっても、どれほど公開が必要な情報だと考えられても、永遠に「秘密」とされてしまうものも少なくないでしょう。
つまり、「何が秘密なのか、なぜ秘密なのか」と問うていっても、結局、「それは秘密です」という答えしか返ってこないようなものになっています。「何が、なぜ、どのように」という問いが意味をなさないということです。これでは、「お上が『秘密』と決めたから『秘密』なのだ」という根拠なきご都合主義に貫かれていると批判されても致し方ありません。疑問が払拭されなければ、たとえどれほど「知る権利は否定されていない」「国益や国民の安全を守るために必要だ」と言われても、説得力に欠けると言わざるを得ません。
仮に、この法案が生徒や学生が書いたものだとして添削し、講評するとすれば、次のように非常に厳しい言い方をするしかないでしょう。
「全体的に非常に曖昧かつ不明確であり、残念ながら、極めて説得力に欠けてしまった。読み手に納得してもらえるように、きちんと根拠を示し、一つ一つ具体的に明らかにすることが必要である。」
「知る」ことに「慎重」にならざるを得ない「空気」が生まれてしまいます
法案には「共謀」「教唆」「煽動」などの「罪」が盛り込まれており、公務員のみならず、一般国民も「処罰」の対象となります。しかし、国民はそもそも何が「秘密」にあたるのかを知りません。「秘密」が何かを知らないということは、何が「罪」にあたるのかもわからないということです。にもかかわらず、自分でも知らないうちに、自らの言動が「共謀」「教唆」「煽動」といった「罪」に問われかねません。「罪」の中身を知らないまま、「罰」だけは背負わされるということになってしまいます。
公務員、特定秘密にかかわるとされる民間人、ジャーナリスト、研究者などのみならず、一般国民もまた「処罰」される危険性がある以上、次第次第に「知る」ということに「慎重」になり、あるいは「後ろ向き」になっていかざるを得ません。「知ってはならない」という圧力の下、「知ればまずい」「知らない方がよい」という「空気」が醸成されていき、国民は「知る」という営みから次第に遠ざけられていきます。「知る」ことから遠ざかるということは、「考え、もの言う」ことから遠ざかっていくということです。
なんのための論作文教育―添削指導なのかが、私たち自身に問われています
「知ろう、考えよう、述べよう」は論作文教育―添削指導の原点です。だからこそ、「知るな、考えるな、もの言うな」という流れが生み出される危険性があるものを看過するわけにはいきません。生徒や学生に対して、間違っても「そうしたことは知ろうとしない方が無難だよ」「その辺はあまり考えない方がいいよ」「そういうことを言ったらやばいよ」などと言うわけにはいきません。
特定秘密保護法案が審議されている今日、なんのための論作文教育―添削指導なのかが、今私たち自身に問われています。
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